モーリシャスへの汐路

☆1992年10月 パシッフィクプリンセス

Azamara Onward - Wikipedia

 ホノルルから横浜まで10日間。27000トンのかわいらしい船でした。この船で太平洋の荒波を乗り切るのは、私には素敵なことです。私は船酔いをしたことがほとんどありませんでした。自分は船酔いをしない体質なのだと思っていました。大阪公立大学名誉教授の池田良穂先生は造船の専門家ですが、船酔いの研究もされました。先生によれば、船酔いは目から入る情報と、体の揺れを感じる感覚のずれによって生じるそうです。先生の実験によると、動かないように椅子に座らせ、周りの壁を動かしても、船酔いの症状を起こすそうです。だから船に乗って、気分が悪いからと寝込んでしまうと、起きると揺れを感じて気分が悪くなり、最後まで船酔いから逃れられないそうです。船に乗ったら、しばらくあちこちを歩き回り、自分も船も揺れているのを十分認識することが船酔い防止に有効だそうです。

 実は、私は人一倍揺れに弱いことを、かなり後になって知りました。それは、コンテナ船が海賊に乗っ取られ、船長が人質になった実話をもとにした映画を見た時のことでした。

 船長がニューヨークの家を妻に送られて出かける冒頭のシーンからすぐに海の上になりました。ロケには実話と同型のコンテナ船、海賊のボート、テンダーボート、海軍の軍艦が使われたそうです。私は海上のシーンになったとたん体が熱くなり、ぐーとこみ上げてきました。さっき食べたものが悪かったのか?いや、これは船酔い、いや陸酔い。幸いにも一番前の席で、左隣が空いていたので、私は半身を隣の席に横たえて、その映画を見終えました。

終わった後、振り向くと誰も酔っているようには見えませんでした。私はその時心の中で「あなたたちは強い。恐れず船に乗りなさい」と叫びました。私は船がなんとはなく好きで、乗船するとウキウキしてあちこち探索し、日頃よりよく歩くので船酔いしなかったのです。

 ロゼッタと会ったのはこのパシフィックプリンセス船上でした。彼女は1人でこの船に乗り、数日東京に滞在する予定で、私に声を掛けました。彼女が予約したのはヒルトンホテル・東京ベイ。私はこのホテルは東京ではないと教え、新宿のヒルトンに変えるようアドバイスをしました。彼女は数日滞在し、私が勤めていた毎日新聞にもやってきて、見学し、我が家でお茶も飲みました。ロゼッタとは後に、いっしょにクルーズすることになります。私より少し年上でしたが、美人で若く見えます。その代わり、お化粧には30分くらいかけるのでした。

 それからどれくらい経ったでしょう、彼女から電話があり、旦那が彼女と出て行ってしまったと言うのです。電話口で涙声の彼女に「貴女のような素敵な女性を裏切るような男なんか忘れてしまいなさい」と慰めるのは、英語力のあまりない私には大変でしたが、海外留学や長期滞在もない私にとって、そんな知り合いができるなんて、船旅ならではのことでしょう。



☆1992年4月 ロッテルダムⅤ

エレック トップページ>船>客船>往年の客船> ロッテルダム (fc2.com)

 上海・大阪9日間。ゴールデンウィークに、ロッテルダムが2カ月間の太平洋周遊の途中、日本にやってくると聞き、飛び石連休の間に年休を取り上海から乗船しました。このクルーズの区間乗船ルートは香港ー大阪となっていました。それでは2週間休まないとなりません。私は、香港ー大阪の切符を買い、代理店に「上海から乗船する」と連絡して上海に飛びました。阿川博之さんに言うと「もったいない。休んでしまいなさい。貴女がいなくても新聞はできますよ。貴女は自分がいないと新聞ができないと思っているのでしょう」と笑われました。そんなことは思っていなかったけれど、その分、同じ担当の先輩に負担をかけることになるのが心苦しかったのです。先輩は仕事(学芸部演劇担当)が大好き、休みがあればやはり演劇を見に行くという人で「遠慮しないで休みなさい」と言ってくださったのですが…。

 上海空港から港までタクシーに乗り、やがてロッテルダムの船体がみえると、私は「シップ、シップ」と指さし、車を岸壁近くまで寄せさせました。決められた乗船地ではなかったので、受付もなく、入り口でチケットを見せると、パーサーズ・オフィスに案内されました。無事チェックイン。船室に行くと、香港から乗船した客のウエルカムパーティーの招待状が机の上にありました。「船長コンラット・メンケは…」。78年のバミューダ・クルーズで毎日のように一緒に飲んだメンケさんが船長でした。メンケさんが船長になっていても不思議はないと思っていましたが、まさかメンケ船長と再会できるとは…。

 私の目的は船。街に出る気はさらさら無く、荷物をクロゼットなどに収めると、甲板に出ました。甲板では数人のオフィサーたちが談笑していました。そこにメンケ船長が現れたのです。彼がおしゃべりしている間、私は控えていました。ふと彼が振り返った後少し近づき「私は以前、バミューダ・クルーズの時…」と話しかけると「覚えてますよ。私が顔を上げた時、貴女が上に立っていた」というので、感激しました。今回は「妻も乗っています」と奥様を紹介してくださり、パーサーに「この方を私のパーティーに招待してくれたまえ」と言いました。

 その晩、暮れゆく海の見えるバーのカウンターで食前酒をなめていると、メンケ船長がが入ってきました。彼は次々に話しかけられながら(だからあまり人前には出たくないのでしょうと思いました)私に近づきました。バーテンが「船長お飲み物は?」と言うと「いやいい」と断り、私に「しばらくですね。今度のパーティは32人ほどの夕食会です。着物を持っていらっしゃいましたか?それを着てきてくださいね」と言い、出ていきました。

 パーティはキングズルームという普段使われていない部屋で開かれました。ツァーの受付の時などに使う長机を横に3つ並べ、その対面も同じく3台並べ、両脇に1つづつ着けて細長い長方形を作り白い布で覆っている。長い辺の中央に船長、その対面に船長夫人が座りました。その他のカップルは並んで座る。常の通り女性客のほうが多いのですが、少なくとも片側は異性になるように席を割り当てているのは欧米らしい、日本ではあまり考慮されない価値観ではないでしょうか。私は短い辺の角の席。船長夫人側で、船長の顔がよく見えました。食事がすむと、彼は絶えずタバコをふかしていました。私の隣は中年のアメリカ人女性で「ここでタバコを吸っているのは船長と船長夫人だけね」と言う。私もメンケさんのタバコに驚きました。かつて、彼がこんなふうにタバコをふかしているのを見た記憶がありません。お酒を飲まないためにか?会話を避けたいためなのか?「大変ですね。お身体に気を付けてください」私は心の中でつぶやきました。当時ホランドアメリカは新造船を2隻建造中で、その1隻に乗船予定とおっしゃっていましたが、その船も早々に下りて引退されました。糖尿病が悪化したという噂でした。

 ホランドアメリカのシアトル本社(当時)の営業部長のクルークさんにもお会いしました。彼はその後、何度か旅行博に来日しましたが、50歳で引退しました。シアトルの自宅の庭仕事と、病弱な息子を立ち直らせると言っていました。これも彼我の価値観の違いを感じました。



☆1990年7月 QE2

クイーン・エリザベス2 - Wikipedia

 サウザンプトンからニューヨークまで、6日間の大西洋横断でした。

 このクルーズはキューナード社の150周年記念特別航海で、料金がいくらだか忘れましたが、通常よりだいぶ高かったのは覚えています。この船はモーリタニア・レストラン、ビクトリア・レストラン、グリル・クラスと、3クラスで料金体系が分かれていました。私はビクトリア・クラスの外側のキャビンを申し込みました。

 申し込んでしばらく後に、代理店から本社が発行した英文のパンフレットが送られてきました。それによると、料金は往復料金、またはニューヨーク・ロンドンの片道航空券とセットで、ヒースロー空港からサウザンプトンまでの鉄道料金が含まれているとありました。高い料金だと思っていましたが、それなら納得の価格です。私はすでに、東京・ロンドン、ニューヨーク・東京の航空券を苦労して買った後でした。払い戻しはできません。私は代理店を通じて、空港からサウザンプトンの鉄道のチケットをもらいたいこと、船は片道だけなので、少し割り引してもらえないかと問い合わせました。当時はメールはおろかファックスもなく、テレックスの時代でした。返事は「割引はできない」(これは一応聞いてはみたものの、たぶん無理だろうと思っていました)。「空港からサウザンプトンの鉄道のチケットは航空券とセットだから上げられない」というもの。この言い分は納得しかねました。料金に含まれている航空券を利用しなければ、会社の利益になることなのに、それを盾に鉄道のチケットまで拒否するのはおかしいのではないか?と。それで私は鉄道のチケットとニューヨーク→ロンドンの航空券を要求しました。返事は「用意しておくから本社まで取りに来い」というものでした。私はサウザンプトンで前泊する予定を変更して、ロンドンで1泊して、当時キュナード本社のあったトラファルガー・ハウスに立ち寄り、チケットをゲットしました。タクシーを使ったのでかえって高くついたかもしれませんが、意地でした。

 その航空券はもちろん使わず、持ち帰りました。帰国すると、これもダメ元で英国航空に、払い戻せないか聞いてみました。返事はもちろん「ノー」。そのうえ、航空券を返せというのです。もちろん私は無視しました。が、このことは当然私のキュナードに対する心象を悪くしましたが、それより、このクルーズ自体に私はたいそう失望しました。150周年記念航海と銘打つからには、催し物はもちろん、船の中は、それらしい華やかな飾りつけで祝祭気分を盛り上げているものと思っていました。ところがそんなものは見当たりません。ロイヤル・オーケストラのメンバーを乗せていましたが、劇場でのコンサートのみで、華やいだ雰囲気とまでいえません。折から、大西洋には大きなハリケーンが進行中で、ずっとアゲンストの風で船は大いに揺れました。外甲板に出ることはできません。この船には、進行方向を見られる場所がなく、モニターに映し出される映像を見るのみでしたが、波が何度もブリッジの上を越えていました。外気温が低いせいか冷房が効きすぎて、風邪をひいてしまいました。

 私はクルーズ・デイレクターにインタビューを申し込み、記念航海の特別イベントについて聞いてみました。すると、この航海出発前に、女王をお招きしてパーティーを行ったことなどを話しました。私は聞きながら、なるほど、私の払った”特別な”料金は、乗船する前の特別イベントに使われたのね、と思いました。風の影響で、昼ニューヨーク入港の予定は夕方になりました。

 その時毎日新聞のニューヨーク支局には運動部の後輩だった男性が特派員だったので、連絡して、彼の行きつけのバーで会うことにしました。彼曰く「来るときはホテルで呼んでもらったタクシーで来るように。鈴木さんのホテルの周辺は、夜歩くのは危険です。タクシーも流しはやめたほうがいい」とか。アメリカの治安がかなり悪い時代でした。



☆1989年10月

ロイヤル ヴァイキング シー

MS Albatros - Wikipedia

 このクルーズはどこかの会社が、この船をチャーターして横浜・香港往復(片道4日)のクルーズをしたものです。当時「ほかならぬ、このノルウェーのロイヤル・ヴァイキング社の船が一番いい船だ」という声があり、このクルーズが実現したのです。私は友人を誘って往路4日のみ乗船しました。この船を住処とし、ずっと乗り続けている年配の女性だけが西洋人の客。残りは日本人もしくは日本語を話す客でした。

 チャーターした会社が多くのスタッフを乗せ、客に対応、船のクルーは一歩下がって見ているという感じで違和感はぬぐえなかったです。1人の男性客が船のバンドに「歌いたい」と言う。「曲名は?」と聞かれ「雪は降る。わからんやろ?」と言う。誰も通訳できなかった。私は「トンブラ・ネージュ」と助け船を出しました。バンドメンバーは「オー」と言って演奏しだしましたが、彼はびびったのか?結局歌いませんでした。

 当時「この会社の船が一番素晴らしい」という評価もあったけど、それについては記憶がありません。この方式ではクルーの評価ができず、私としてはなんとも評価しようがなかったのだと思います。                          志津


 

☆1988年7月 キャンベラ

キャンベラ (客船) - Wikipedia

 アーカディア、オリアナと乗船したP&Oの船はいずれも横浜ー香港間でしたたが、今回は初の地中海クルーズ15日間。P&Oのクルーズの発着港はイギリス南部のサウザンプトン港。この年、私は入社20年で2週間の特別休暇が取れました。多くの社員は、休暇を会社に買い上げてもらったけど、私は売らずに夏休み1週間を加え、3週間を使いました。往復の飛行時間と、万が一遅延した場合の予備日で、それくらいは見ておきたいものです。ホテルは空港で紹介してもらいました。ロンドンで1泊、サウザンプトンで1泊しました。

 サウザンプトンはロンドンから電車で行きました。ところがこの電車は途中止まりで、乗り換え。乗り換えは跨線橋を上り下りして隣のホームに行かなければなりません。私は大きなスーツケースと、半分のバッグを持っていました。車が付いているので平らなところはいいですが、2つ持って階段を上がるのは無理。当惑して一瞬立ち止まると、すぐに男性が持ってくれました。こういう時、レディファーストはうれしいです。でもそれ以来、私はサウザンプトンへの行き来はバスを使います。バスはサウザンプトン↔ロンドン市内↔ヒースロー空港というものもあり便利でした。

 いつだったか?北欧の街だったと思いますが、丘沿いの道を歩いていると、「ガチャン、ガチャン」と大きな音が響きました。と同時に数人の男性が駆け出しました。見ると、丘の上からの長い階段を、乳母車を引きづりながら1人の女性が下りてくるのです。そして駆け付けた数人の男性が乳母車をかかえ下ろしてあげました。こういうことは、子供のころからしつけられていると聞きました。男はつらいよ?でも、女に甘えている寅さんとは大違いです。

 このクルーズ、最初の晩に船専属オーケストラのクラリネット奏者、ポールさんと会い、それから毎晩飲みました。仕事が終わってからなので、遅い時間になりましたが、夜型人間の私には問題なし。船底近くの彼の”個室”も見せてもらいました。床から天井までを2つに分けた、2段ベッドならぬ2段個室。大きなバッグなどは別に預かってもらうのか、小さな物入スペースがあるだけ。カプセル・ホテルみたいですが、自分の巣のように気に入っているようでした。このころのこの会社の、彼らエンタテナーに対する待遇はよいようでした。彼らはクルー食堂のほかに、客用レストランにの席を持ち、時間を見ながら時々利用するとのことでした。また、彼らはツァー・エスコートとして、気に入ったオプショナル・ツァーに参加できる(特に仕事しているようには見えなかったけど)ようでした。

 寄港地の1つにマジョルカ島がありました。私は国際免許証を持っていきました。都市で運転はできないけど、島ならできるのではないかと…。出口でポールさんに会いました。この日はオフとのこと。「レンタカーを借りる」という一緒に来てくれました。でもオートマチック車はなく、左ハンドルのマニュアル車などとても運転できません。結局ポールさんが運転してくれました。都市部を離れ、草原の中の1本道を疾走しました。私は今、マジョルカ島を走っている。これは本当に現実なのだろうか?夢をみているのではないだろうか?と思いました。結局私たちは島を横断(短いほう)しました。このクルーズではウェールズから来た老夫婦にもかわいがられました。彼らももうあの世です。

 


☆1983年2月 先代オリアナ

オリアナ (初代) - Wikipedia

 アーカディアとは逆に神戸から香港まで乗船しました。細かいところは覚えていませんが、とにかく繊細な美しさにあふれていた船だったと記憶しています。オリアナというのはエリザベス1世の雅名(雅号)とか。スペインの無敵艦隊を撃破してイギリスが隆盛になったときの女王です。生涯独身だったとか。スコットランドの女王メアリー・スチアートと王位を争ったとか。ドニゼッティが2人の確執を「マリア・ストアルダ」というオペラにしました。数年前にメトロポリタン・オペラのライブビューイングで見て、すごいインパクトを受けました。船はオペラの中の女王とは違ってたおやかな美女です。

 しかし、この船は不幸な末路をたどりました。運航を停止後、日本の会社が買い取り、大分県の別府港に係留、マリンミュージアムとして展示しました。私もいつだったか別府に見に行きました。それはオリアナの剥製でした。船長室など、ほんの一部が展示されているだけで、天井や壁、床材もなく鉄の板がむき出し、他の客の姿もありません。がらんとしたスペースで、1人の男性がオークションをしていました。「もう、めぼしいものは無いんですが、こんなのどうですかね?エンターテナーの衣装。こんなの宴会で使えない?」とふてくされたような様子で。私は涙が出そうで、早々に下船しました。

 その後オリアナは中国に買われ、水上レストランやホテルとして中国内を点々とし、上海の揚子江だったか?のほとりにレストランとして係留されました。私はいつだったか?訪れましたが、すでに閉鎖されていて、入り口に、カップルの写真や「名船で豪華結婚式を」というようなことが書かれているらしい色あせた看板が立っているだけでした。またも涙が出そうで、振り返らず立ち去りました。           志津



☆1980年8月 ノルウェー

フランス (客船・2代) - Wikipedia

 1974年に乗り損ねた「フランス」です。1980年4月、ノルウェーと名を変え、カリブ海で再デビューしたと聞き、8月に乗りに行きました。船体は青と紺に塗り替えられていたけど独特のファネルの形など確かにあのフランスに違いなかった。内部は、オーシャンライナーからクルーズ用に、船室はツィンベースに改装されたようでも、公室の豪壮なインテリアは往時のままのようにでした。でも、この船は「フランス」ではないと痛感しました。

 カリブはかつて、お金持ちの避寒地。はるか憧れの高級リゾート地だったようです。クルーズ船の就航によって、安価で大衆的で、多くの人が訪れることのできる南国になったのです。おそらくフランス内にあっただろう、少し気取った社交など全くといっていいほどありません。何も知らないので申し込んだツァーは参加11人、私以外は新婚ペア5組。困りました。

 ある日、私を訪ねて日本人女性がやってきました。彼女はアメリカ人男性と結婚してアメリカに住んでいる人で、日本人の客がいると聞いて、久しぶりに日本語で話したいと来たのです。彼女は身の上話をしました。彼女は米軍兵と結婚したそうです。ところが夫は「好きな人ができたから離婚してくれ」と言うのだそうです。相手は彼女の友人でした。彼女は怒り「絶対に分かれない」と、弁護士に相談しました。弁護士は「彼を愛してるからですか」と聞いたそうです。「とんでもない!私は彼を憎んでいます。別れたら、彼は彼女と結婚して幸せになるから別れない」と言うと、弁護士は「私は貴女の依頼に沿うよう働くのが仕事です。でも貴女は愛してもいない男との結婚生活のために時間とお金を使うのですか。お金をどぶに捨てるようなものではありませんか」と言ったという。彼女ははっとし、弁護士のアドバイスに従って、アメリカへ渡り、そこで裁判し、彼の財産を半分もらって離婚し、そのまま米国にとどまり、今の夫と結婚したという。「最初は憎かったけど、財産を半分渡しても新しい恋に行くのはいさぎいいと今は思う」と彼女は言いました。若かった私はただ目を丸くして聞いていました。                     志津



☆1978年10月 ロッテルダムⅤ ニューヨークから8日間のバミューダ・クルーズ

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 この船好きです。大好きでした。私のお気に入りベスト3に入る。もちろんいい船いっぱいあります。お許しください。長い年月を経て残った記憶は、より美しく輝きを増すのです。でも思い出は人との出会いですね。インテリアなどはどの船のだったかよく思い出せません。船がナッソーに着いたとき、私は船首見下ろすデッキで、2等航海士のメンケさんが海を覗き込みながら、「もう少し」、「ストップ」と手でブリッジに合図していたのを眺めていました。今では機械化が進み、あまり見られない光景ですが…。仕事を終わったメンケさんが顔を上げた時、私と目が合い「お早う」と言いました。それからやはり毎晩一緒に飲みました。夜のブリッジも見せてくれ、コーヒーをいただきました。私はコーヒーは苦手で紅茶派ですが、そのコーヒーは苦みがなくコクがあっておいしいと思いました。そう言うと「ダイニングよりいい豆を買っている」とのことでした。

 このころのセキュリティーはゆるやかで、ナッソーで同じホランドアメリカの船が隣に停泊していたので、ロッテルダムのチケットを見せたら見学させてくれました。

 この船は引退後、故郷ロッテルダムに係留されホテル・レストランになっています。

 私は1919年にドイチュラントでブリテン島一周クルーズをする前の予備日を利用してイギリスのハーウィッチから国際フェリーでロッテルダムに行き、同ホテルに泊まりました。アウトサイド・キャビンに泊まりました。重厚な木製ドアを見て、この船で過ごした日々を思い出しました。

 船長室などが残され、地下のエンジンルームも見られました。見学中は自動説明受信器を貸してくれ、見学スポットにくると説明を聞くことができました。その昼中央のレストラン(当時のものではない)では結婚式が行われました。この船が地元の人々に愛され、使われていることがわかり、うれしくなりました。

ss ロッテルダム ホテル エン レストラン(ロッテルダム)– 2023年 最新料金 (booking.com)


☆1974年9月 ラファエロ カンヌ→ニューヨーク       

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 「にっぽん丸」のモーリシャス・クルーズを離脱した私は涙にくれましたが、この時もまた、私は泣きました。実は私は「ラファエロ」ではなく、「フランス」に乗るためにフランスにでかけたのです。

 ドゴール大統領が「船は動く文化大使だ」と威信をかけて建造した「フランス」は運航費もかさみ大赤字でした。ジスカール・デスタン大統領は、その年のシーズンかぎりで運航停止を決定しました(大西洋横断は9月でシーズン終了)。パリ特派員伝で知った私は、運航会社メッサジマルティニに「乗りたい」と手紙を書きました。同社から「お金を送金すれば船室を取れる」と電報が来たのはその便の1週間ほど前。私は「乗船する」と電報を打ち、小切手を送り、返事を待つ間もなくパリに飛びました。

 「貴女の切符はここにあります。ただ、乗れるかどうかはわかりません」。メッサジマルティニ事務所でこう言われました。この朝、ニューヨークから到着した船は、乗客を降ろすと、ルアーブルの港の中央に碇を下ろしたのです。こうすると大型の船は入港できなくなるのだそうで、港を封鎖して運航停止反対のストライキを始めたのです。会社はただちに予定していた残りの航海の中止を決めました。

 ルアーブルの港では小型船が「フランス」の周りを巡る商売を始めていて、さっそく乗りました。近づいて、甲板から見下ろす人の顔が見えるようになった時、心の中で「乗せて!私はそのためにやってきたのよ」と叫ぶと、どっと涙が出て、泣き伏してしまいました。

 その1週間後、カンヌから「ラファエロ」に乗りました。この船もストライキをしたとかで、乗船は真夜中になりました。はしけで沖停めの船に向かうとき、突然滝のような雨が降り、雷が鳴りました。遠雷のようですが、凄まじい轟音。稲光で瞬間真昼のようになりました。

 「降るがいい、最後の涙雨。私の旅は今始まる」心の中で叫びました。

 このクルーズ、テーブルメートが1組の中年カップルのほかは若い女性(私も若かった?)で楽しい食卓でした。アメリカ映画とイタリア映画を交互に上映しましたが、聞いたこともなかったイタリア語の映画のほうがわかりました。ハリウッド映画は会話が理解できないと分からないけど、イタリア映画はさりげない景色などの挿入が、登場人物の心象を表現してくれました。こうして私は、映画も音楽も、料理もファッションもイタリアびいきになりました。海外で名前を聞かれて「スズキ」と名乗ると「オー、モーターサイクル!」と言われますが、あの船のパーサーは「オー、マダムバタフライ」と言いました。さすがイタリアのインテリ。でも私はソプラノですが…。


☆1973年2月 アーカディア(先代)    香港→神戸

                                  P&O Cruises - ウィキペディア (wikipedia.org) =英文

(クリックするとリダクトしますか?と聞いてきますが、そのままアドレスをクリックすると見られます)

 このクルーズが、私を船旅にいざなってくれました。海外旅行にお金を使うのなら船旅以外には使いたくないと思うようになりました。香港から大阪まで、この間、鹿児島に寄港し、私にとって初の九州旅行になりました。わずか4日間のクルーズだったのですが、それが素晴らしかったので、私は船旅にのめり込んでいきました。

 きっかけは茂川敏夫著「船旅への招待」という本を読んだからです。それですぐに乗れそうな船を探した結果です。当時私は新聞社の運動部に所属していました。夏はスポーツが多い時期で、交代で取る夏休みを冬にずらすのは喜ばれました。

 私の船室は一番安い4人相部屋。藤製の2段ベッドが2つ。料金は5万円でした。行きの飛行機も5万円でした。4日間3食、アフタヌーンティーまでついてなんとお得なんでしょう、と私は思いましたが、他人に話すと「え、クルーズ、何?船で旅するの?なんで?お金がないから?」といわれました。

 ルームメイトは名古屋在住の、私より少し年下の女性が1人。高校の保健の先生でした。その後、相撲担当だった私は名古屋場所の際は彼女と会い、彼女が東京に来た時は一緒に食事をしました。ダイヤモンドプリンセスが日本一周クルーズをしたときは一緒に行きました。

 私たちがパーサーズオフィスに行くと、デュプティー・パーサーのバックレー氏が名前を聞き、それぞれにカードをくれました。「デュプティー・パーサーのバックレーは(空白スペースに私の名前)と歓談いたしたく(食事時間を聞き、食後の時間を書き入れる)に、彼のキャビンでお待ちいたします」と書かれていました。時間に行くとパーサーズ・オフィスの仲間1人と待っていて、歓談した。それから毎晩私たちはいっしょにお酒を飲みました。彼らはアメリカ人が大嫌いで、うんざりしていたようでした。いったい何を話していたのでしょう?私は英語が大嫌いで、英語は中学で勉強したきり。大学受験はドイツ語でしたというへそ曲がりです。まあ、他愛のない話に違いありません。

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 2022年5月、私はこのブログを立ち上げました。「にっぽん丸」のモーリシャス・クルーズをリポートするためです。ところが私はコロナ感染が判明して、早々に船から離脱してしまいました。 そのままになっていたこのブログを、タイトル「モーリシャスへの汐路」はそのままに、私のクルーズを回顧するものに転用することにしました。これまで新聞や雑誌などで書いたクルーズのレポートは、代々私のパソコンに引き継がれて保存されていますが、それは見ないで、ただクルーズ歴だけを見ながら、忘れ残った事を書いてみようと思います。はたしてどんなものになるか…?お時間がおありになら、時々のぞいてみてください。                              志津


     自己紹介に代えて                  

なぜそんなに船旅が好きなのか聞かれれば、たちまちまちに船旅のよさをいくつも挙げることができる。「いながらにしていろいろなところに行くことができる」「安全快適」「楽しい催し」「知らない人々との自然な交流」e t c 

でもそれは船旅の説明であって、好きな理由とはちょっと違うような気がする。ハンサムだとか優しいとか、客観的に評価することと恋することが、イコールではないように。

多分私は生来の風来坊なのだ。私の父は幼い私をささやかな旅に連れ出した後、家に帰り着くといつも「やれやれやっぱり家が一番いいな」と息をついた。私はその言葉を不思議な気持ちで聞いていた。両親と不仲とか、家の居心地が悪かったわけではない。

やがて時刻表片手に一人旅をするようになったが、行き先は期待外れだったり、宿が酷かったり、高熱を発したこともあった。だからといって家に帰りたいと思った事はない。さりとて精力的に見て回ることもしない。見知らぬ街で、見知らぬ人たちの中で、自分は異邦人だと感じることこそ、最も自分らしく存在することのように思える。もし人並みの体力があったら、無謀な冒険を試みて、今頃もう死んでいたのではないかという気がする。

「旅に病んで 夢は枯野を 駆け巡る」

これが私の理想の境地だ。だが、人一倍足弱な私は、荷を背負って旅することはできない。だいいち、今の世は野ざらしとなって人知れず朽ち果てることなどできない。足弱で怠け者の出不精だけど旅したい。パッケージ旅行は嫌い。一人旅に必要な綿密なスケジュールを立てるのもいや。そんな私の要求に船旅はぴったりだった。船に乗るまでと降りて家に帰るまでのスケジュールさえちゃんとしておけば、船がどこかへ連れて行ってくれる。朝起きて窓から眺めると知らない街についている(もちろん本当は決まったスケジュールで運行しているのだが)。ふらりと降りて、出港の30分前までに戻る。このように船は私を疑似風来坊にしてくれるから、私は船に乗るのではないだろうか。


          2002年9月のラプソディーの地中海クルーズで

 この文は当時勤めていた毎日新聞の社内報に、趣味について書くよう言われて書いたものです。クルーズに対するこの思いは、今も変わっていないと思います。       志津


  大手海運会社の商船三井(MOL)は、傘下の商船三井客船(MOPAS)の「にっぽん丸」のモーリシャス・クルーズ催行を発表しました。このクルーズは、2020年7月に、MOLがチャーターした貨物船がモーリシャス近くの環礁に座礁して燃料流出事故を起こしたことに対するお詫びの一環として公約したものです。2023年12月15日横浜を出港して24年1月31日に同港に帰港する48日間の航海です。コロナ禍で実現が心配されましたが、なんとか22年の実施を果たせるようです。モーリシャスはアフリカの東岸、マダガスカル島の東800キロの洋上にある島国だそうで、私もこの事故が起きる前は知りませんでした。これを機にモーリシャスのことを勉強し、みなさんにお伝えし、また教えていただけたらと思います。   

 2022年5月21日                     志津

                                             


                                     モーリシャスの国旗


2022年12月15日にっぽん丸はモーリシャスに向かって横浜を出港しました。コロナの感染拡大で実施が危ぶまれていましたが、辛うじて2022年中の実施が実現しました。これまでと違って、五月雨式のお知らせや書類の提出が続き、10月になって「催行を決定しました」という知らせに「え、まだ決定していなかったの?」と驚きました。

私も、直前の郵送によるPCR検査、横浜港での検査も陰性で乗船しました。2023年1月31日まで58日間のクルーズの始まりです。
        
    スケジュール
   12月15日午後          横浜出港
   12月18、19日         石垣島
   12月24、25日         シンガポール
   12月30、31日         マーレ(モルジブ)
   1月5~8日            ポートルイス(モーリシャス)
   1月10~12日          トゥアマシナ(マダガスカル)
   1月22、23日            シンガポール
   1月31日             横浜帰港

                                               志津


 2023年は私にとり、初クルーズから50周年の年。数年前、持病を得(リウマチ)、医学の進歩のおかげで、なんとか日常生活は送れているけど、このクルーズをグランドフィナーレとし、一区切りつけようと思いました。これまで私の一番長いクルーズはリージェント・セブンシー・エクスプローラーのケープタウン周遊15日間なので、3倍以上の長期クルーズになります。
 一番大きなスーツケースと一回り小さいスーツケースに一張羅を詰め込んで、大勢の人々に見送られて出発しました。                志津


 コロナが流行し始めて以来、私は毎朝起きると検温していました。起床時の体温は36・1℃でした。ところが乗船2日目(16日)朝、36・3℃、次の朝には36・5℃になったのです。念のため医局に電話してPCR検査を受けると陽性でした。そのまま船室にこもり、那覇で降りて、無症状ながら陽性だったミュージシャンと地元の療養所に向かいました。
 療養所は市内の大きなホテルを転用したもの。本来は地元の人のための療養所で、私は居候でした。毎朝検温し血中の酸素濃度を測り報告する。アナウンスがあると、だれもいないエレベーターホールに置かれたお弁当を取りに行き食べるのが日課。テレビのニュースは「この冬は寒冷前線の異常な南下で最高気温が12~13℃」と伝えていました。エアコンはあるものの暖房はなく、私はダウンコートにくるまって震えていました。
 24日、クリスマスイブに解放されました。この間検査はしませんでした。もうウィルスは感染力を失っているからで、検査をすれば、ウィルスのカスが反応して陽性になる恐れもあるからだそうです。昼前に、ここへ来てから初めて1階へ降り、係にパルスオキシメーターを返し、出口(裏口)を示されて道に出た時、一瞬足がすくみました。まるで小屋で生まれ育った家畜が外の世界を恐れるように。
 船を降りて、車で送られて着いた療養所。自分がどこにいるのかさえ分からない状態でしたが、MOPASの方が東京に帰る航空券を届けてくださって帰京できました。 志津


 それから、再乗船を目指しましたが、何度PCR検査をしても陽性。この間、にっぽん丸はシンガポール、モルジブ、モーリシャス、マダガスカルを経て帰路につきました。
 私は愚かだったのです。子供のころ、風邪をひいたらお風呂に入ってはいけないといわれていました。コロナも風邪のようなものと思い、私はずっと入浴を控えていました。寒がりの私は汗もほとんどかかず、それほど不快感はなかったのです。私はついにあきらめ、どうにでもなれと入浴しました。その翌日の検査で「検出不可」(陰性ではないが、ごく微量)となり、その晩洗髪したら「陰性」になりました。ウィルスのカスはどうやら頭に多くついていたようです。それで、私は感染経路の見当がつきました。私には不可抗力だったとだけ
申しておきます。
 1月23日にシンガポールから乗船しました。ホテルからバスで向かうとき、窓から見たにっぽん丸の細長い船体に驚きました。遮るものなく、船全体を真横から見られることはめったにないことです。この旅の贈り物に思えました。
 コロナ下のクルーズは、密を避け、食事も家族や同行者とのみ同席するなどのルールで、1人旅には寂しいものでしたが、やむを得ないことです。それでも、長い旅の間に、数人の小グループもできているようでした。
 コロナが治まったら、よきグランドフィナーレを求めたいと思っています。  志津

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